軍艦島とは

近代産業化を支えた島 軍艦島

「 軍艦島 」 は長崎港の南西およそ 19 kmの海上にある島の俗称で、正式には 「 端島 ( はしま ) 」 と言います。
現在、長崎県長崎市に属している軍艦島は、江戸時代後期に石炭が発見され、その後明治 23 年から本格的に海底炭坑として良質な製鉄用原料炭を供給してきました。

軍艦島の位置
▲ 軍艦島の位置

軍艦島の繁栄と閉山

幅 160 m 、長さ 480 m 。東京ドームのグラウンドおよそ 5 個分という小さな島ながら、最盛期には 5,200 人もの人々が住み、東京の 9 倍を超える人口密度は世界一とも言われました。軍艦島の半分は鉱場なので居住地がとても狭いためか、大正 5 年に日本初の鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅である 30 号棟が建築されて以来、次々と高層アパートが建設されました。
また、採掘技術の発達とともに島のまわりを拡張。塀がぐるりと島を取り囲み、高層アパートが立ち並ぶその外観が軍艦 「 土佐 」 に似ていることから 「 軍艦島 」 と呼ばれることになりました。
小中学校のほか共同販売所、映画館や料理屋、娯楽場、病院など最先端の技術と都市機能を持つ炭鉱都市として栄えましたが、国のエネルギー転換政策を受けて昭和 49 年に閉山。すべての島民が島を去ることになりました。

軍艦 「 土佐 」 に似た軍艦島
▲ 軍艦 「 土佐 」 に似た軍艦島
軍艦島から高島をのぞむ
▲ 軍艦島から高島をのぞむ

そして未来へ

▲ 現在の軍艦島内

島内には危険な箇所も多く、建物の老朽化が進んでいることから、立ち入り禁止とされていましたが、現在は島の一部を整備し、限られたエリアではありますが、上陸 ・ 見学できるようになっています。
近年、海外の映画やテレビドラマ、ミュージックビデオのロケ地として使用されたことで新たに脚光を浴び、多くの見学者が訪れています。
また、かつての島民らが 「 自然との共存を考える島 」 として軍艦島を保存する活動を行っており、平成 27 年 7 月には明治日本の産業革命遺産の一部として、世界文化遺産に登録されました。

軍艦島 ・ 島内ガイド

地図
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1 号棟 昭和 11 ( 1936 )  木造 1 階 端島神社
2 号棟 昭和 25 ( 1950 )  鉄筋コンクリート造3階 職員住宅
3 号棟 昭和 34 ( 1959 )  鉄筋コンクリート造 4 階 職員住宅
5 号棟 昭和 25 ( 1950 ) 木造 2 階 鉱長社宅
6 号棟 昭和 11 ( 1936 ) 木造 3 階 職員合宿
7 号棟 昭和 28 ( 1953 ) 木造 2 階 職員クラブハウス
8 号棟 大正 8 ( 1919 ) 鉄筋コンクリート、木造 3 階 共同浴場 1 階、職員社宅
12 号棟 大正 14 ( 1925 ) 以前 木造 3 階 職員住宅
13 号棟 昭和 42 ( 1967 ) 鉄筋コンクリート造 4 階 公営住宅 ( 教職員用 )
14 号棟 昭和 16 ( 1941 ) 鉄筋コンクリート造 5 階 職員社宅 ( 中央社宅 )
16 号棟 大正 7 ( 1918 ) 鉄筋コンクリート造 9 階 鉱員社宅 ( 日給社宅 )
17 号棟 大正 7 ( 1918 ) 鉄筋コンクリート造 9 階 鉱員社宅 ( 日給社宅 )
18 号棟 大正 7 ( 1918 ) 鉄筋コンクリート造 9 階 鉱員社宅 ( 日給社宅 )
19 号棟 大正 7 ( 1918 ) 鉄筋コンクリート造 9 階 鉱員社宅 ( 日給社宅 )
20 号棟 大正 7 ( 1918 ) 鉄筋コンクリート造 7 階 鉱員社宅 ( 日給社宅 )
21 号棟 昭和 29 ( 1954 ) 鉄筋コンクリート造 5 階 鉱員社宅、警察派出所
22 号棟 昭和 28 ( 1953 ) 鉄筋コンクリート造 5 階 役場 1 階、公営住宅 ( 公務員 )
23 号棟 大正 10 ( 1921 ) 木造 2 階 社宅 1 階、寺院 2 階 ( 泉福寺 )
25 号棟 昭和 6 ( 1931 ) 鉄筋コンクリート造 5 階 宿泊所 2 階、職員社宅
26 号棟 昭和 41 ( 1966 ) プレハブ 2 階 下請作業員飯場 ( 旧船頭小屋 )
30 号棟 大正 5 ( 1916 ) 鉄筋コンクリート造 7 階 旧鉱員社宅 ( 下請飯場 )
31 号棟 昭和 32 ( 1957 ) 鉄筋コンクリート造 6 階 鉱員社宅、共同浴場、郵便局
39 号棟 昭和 39 ( 1964 ) 鉄筋コンクリート造 3 階 公民館
48 号棟 昭和 30 ( 1955 ) 鉄筋コンクリート造 5 階 鉱員社宅、地下パチンコ屋
50 号棟 昭和 2 ( 1927 ) 鉄骨 2 階 映画館 ( 昭和館 )
51 号棟 昭和 36 ( 1961 ) 鉄筋コンクリート造 8 階 鉱員社宅
56 号棟 昭和 14 ( 1939 ) 鉄筋コンクリート造 3 階 職員社宅
57 号棟 昭和 14 ( 1939 ) 鉄筋コンクリート造 4 階 地下ピロティ商店、鉱員社宅
59 号棟 昭和 28 ( 1953 ) 鉄筋コンクリート造 5 階 鉱員社宅、地下購買所
60 号棟 昭和 28 ( 1953 ) 鉄筋コンクリート造 5 階 鉱員社宅、地下購買所
61 号棟 昭和 28 ( 1953 ) 鉄筋コンクリート造 5 階 鉱員社宅、地下共同浴場
 65 号棟 昭和 20 ( 1945 ) 鉄筋コンクリート造 9 階 鉱員社宅、屋上幼稚園
66 号棟 昭和 15 ( 1940 ) 鉄筋コンクリート造 4 階 鉱員合宿 ( 啓明寮 )
67 号棟 昭和 25 ( 1950 ) 鉄筋コンクリート造 4 階 鉱員合宿
68 号棟 昭和 33 ( 1958 ) 鉄筋コンクリート造 2 階 隔離病棟
69 号棟 昭和 33 ( 1958 ) 鉄筋コンクリート造 4 階 端島病院
70 号棟 昭和 33 ( 1958 ) 鉄筋コンクリート造 7 階 端島小中学校
71 号棟 昭和 45 ( 1970 ) 鉄筋コンクリート造 2 階 体育館
ちどり荘 不明 木造2階モルタル造 小学校教員 ・ 家族アパート
※ 資料 : 「 軍艦島実測調査資料 」 阿久井喜孝 ・ 滋賀秀實
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① 30 号棟 ・ 31 号棟アパート

30 号棟アパートは  1916 ( 大正 5 ) 年に建設され、当時の日本最古の 7 階建て鉄筋コンクリート造の高層アパートで、グラバーハウスと呼ばれています。鉱員住宅として建てられたこの建物は中が吹き抜けになっており、鉄筋コンクリート造としてもまだ試行錯誤の実験的段階でしたので、建築学会上大変貴重な建物です。
 31 号棟の 1 階には郵便局、公衆電話があり、地下には美容院と理容院がありました。

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② 総合事務所

鉱山の中枢であったレンガ造りの建物。この島の司令塔的存在でした。
軍事機密があり、子供達は入れなかったそうです。 会社の職員を70〜80名詰め込んで、島内の指示を出していました。
このあたりには多くの建物がありましたが、現在ではそのほとんどが崩壊しています。

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③ 第二竪坑坑口桟橋跡

主力坑であった第二竪坑を含め、鉱山施設は現在ほとんど崩壊していますが、かろうじて第二竪坑へ行くために設けられた桟橋への昇降階段部分が残っています。第二竪坑の遺構は今ではこれだけです。

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④ 貯炭ベルトコンベアー

四角い枠がドミノのように立ち並んでいますが、この上にベルトコンベアーが乗っていました。精製された石炭はこの上を移動、貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船に積み込まれました。
今はその支柱が残っています。

軍艦島の歴史

開坑から閉山まで

江戸時代後期の文化 7 年 ( 1810 年 ) 頃に軍艦島で石炭が発見され、佐賀藩が小規模の採炭を行っていました。その後、明治 23 年に三菱合資会社が島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的海底炭坑として操業が開始されました。
出炭量の増加とともに人口が増え、最盛期には 5,200 人以上の人々が住み、人口密度は当時の東京の 9 倍とも言われたほどです。

島の拡張

軍艦島の多くが鉱場であり居住地がとても狭かったため、人口が増えるにつれて高層アパートが次々と建設されました。
また、島の周りを 6 回にわたって埋め立てる形で護岸堤防の拡張を繰り返し、およそ 3 倍もの面積に広がって現在の形になったのです。

人口の減少と閉山

しかし、エネルギー革命によって石炭から石油へと需要が移り、出炭量と人口が徐々に減少しはじめました。
そして昭和 48 年末に操業終了。翌年 1 月 15 日に 780 人の人々によって閉山式が行われました。
軍艦島には炭坑以外の産業がなかったこともあり、閉山時に暮らしていた2,200人の人々は島を去りました。それから今日に至るまで無人島となっています。

軍艦島の歩み

1810 年(文化7年) 端島で石炭を発見。当時は草木の無い水成岩の瀬であった。
1887 年(明治20年) 鍋島氏が、第 1 竪坑を開坑。( 結果的に 44 mまで開削するが、明治 30 年の火災で閉鎖 )
1890年(明治23年) 三菱が鍋島孫六郎から 10 万円で買収。
1895 年(明治28年) 第 2 竪坑開坑。 ( 結果的に 168 mまで開削、昭和 9 年に改修完了し、追掘 616 mに及び、閉山まで採掘 )
1896 年(明治29年) 第 3 竪坑を開坑。 ( 161 mまで開削し、昭和 10 年まで採掘 )
1916年(大正 5 年) 日本最初の鉄筋高層アパートが完成。
1925年(大正14年) 第 4 竪坑開坑。 ( 353 mまで開削、通常は排気用として使用。第 2 竪坑に支障がある場合に代用として使用。閉山まで採掘 )
1974年 ( 昭和49年 ) 端島砿 1 月 15 日に閉山。 4 月 20 日に無人化する。
1991年 ( 平成 3 年 ) 台風 19 号により護岸が 3 カ所決壊。翌年復旧。
2015 年 ( 平成27年 )  「 明治日本の産業革命遺産 」 の構成資産の 1 つとして世界文化遺産に登録。

軍艦島のくらし

島民の生活

軍艦島には学校や病院、映画館、パチンコ店のほか、商店や食堂など、生活に必要なものはほとんど揃っており、島に住んでいるという感覚がないような都会的な暮らしを送っていたと言います。
そんな軍艦島で不便だったのが 「 水 」 。島内には湧水がなかったために水の確保は困難を極めました。昭和 32 年頃には海底水道が完成しましたが、それ以前は会社から発行される 「 水券 」 と引き換えに飲料水の配給を受けていました。そのため人々は生活用水に海水を利用するなど、日常的な節水を心がけていました。この狭い島の中では住民がみな家族同士のような付き合いをしており、よほどのことがない限り家に鍵をかけなかったという島民もいるほど。イベントごととなると皆が協力しあい、一つになって盛り上がっていました。

▲ 島内でのくらし
▲ 奉納祭の様子

軍艦島の自然

軍艦島には草花を育てる場所がなかったため、PTAなどが協力してアパートの屋上に土を運び、花や野菜を育てました。これは日本で最初の屋上庭園でした。
また端島小学校では悪条件に強い 「 マツバギク 」 を各戸に配布し、島内を草花で飾る運動をしていました。 「 緑なき島 」 に少しでも緑を増やして安らぎを求めたのでしょう。
軍艦島は海に囲まれているために風や波の影響を受け、特に台風の被害は甚大なものでした。満潮時の台風ともなると波の高さは 8 mになることもあり、打ち付けるしぶきは高さ 30 mにも達し、建物の上から覆い被さる凄まじさでした。このとき島のメインストリートは川となり、護岸が決壊して大きな被害を与えたことも少なくなかったようです。

▲ 屋上緑化
▲ 台風で打ち寄せる大波

炭鉱で働く人々

軍艦島は海底炭鉱によって栄えた島です。炭鉱で働く鉱員たちは、ひとたび地下の作業場へ向かうと 8 時間出てくることはありません。
軍艦島の発掘作業は、海面下 1,000 m以上の地点にまで及びました。鉱員たちは気温 30 ℃、湿度 95 %という厳しい環境のもと、常にガス爆発の危険と隣り合わせの中で作業をしていました。
仕事が終わり地上に戻ってきた鉱員たちは、みんな真っ黒になっていました。そんな彼らが向かうのは鉱員浴場。軍艦島では水の確保が難しかったこともあり、鉱員住宅には風呂 ・ トイレがないところも多かったのです。鉱場内にある共同浴場は海水風呂で、一日の汚れと疲れを落とす鉱員たちにより浴槽はいつも真っ黒だったようです。

軍艦島の今と昔

ドルフィン桟橋

日本初のドルフィン式可動桟橋です。長年にわたり島民の夢であったこの桟橋は、台風によって過去 2 度にわたり流失しました。
これらの経験をもとに研究を重ね、台風の猛威にも耐えうる第 3 のドルフィン桟橋が完成したのは昭和 37 年 5 月のこと。この桟橋が閉山まで利用されました。今もその名残を残し、軍艦島ツアー船の接岸場所となっています。

▲ 昔のドルフィン桟橋
▲ 今のドルフィン桟橋

30 号棟 ・ 31 号棟アパート

30 号棟アパートは 1916 ( 大正 5 ) 年に建設され、当時の日本最古の 7 階建て鉄筋コンクリート造の高層アパートで、鉱員住宅として建てられたこの建物は中が吹き抜けになっており、鉄筋コンクリート造としてもまだ試行錯誤の実験的段階でしたので、建築学上大変貴重な建物です。 31 号棟の 1 階には郵便局、公衆電話、理美容院、地下には公衆風呂がありました。理美容院は 65 号棟の地下にもありました。

▲ 昔の 30 号棟 ・ 31 号アパート
▲ 今の 30 号棟 ・ 31 号アパート

総合事務所

鉱山の中枢であったレンガ造りの建物。この島の司令塔的存在でした。子供達は入れなかったそうです。会社の職員を70 〜 80名が常駐し島内の指示を出していました。このあたりには多くの建物がありましたが、現在ではそのほとんどが崩壊しています。

▲ 今の総合事務所

第二竪坑坑口桟橋跡

主力坑であった第二竪坑を含め、鉱山施設は現在ほとんど崩壊していますが、かろうじて第二竪坑へ行くために設けられた桟橋への昇降階段部分が残っています。第二竪坑の遺構は今ではこれだけです。

▲ 昔の第二竪坑坑口桟橋
▲ 今の第二竪坑坑口桟橋

貯炭ベルトコンベアー

四角い枠がドミノのように立ち並んでいますが、この上にベルトコンベアーが乗っていました。精製された石炭はこの上を移動、貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船に積み込まれました。今はその支柱が残っています。

▲ 今の貯炭ベルトコンベアー

端島神社

危険と隣り合わせの鉱員たちにとって神社は心のよりどころであり、毎年 4 月 3 日の 「 山神祭 」 は全島民をあげて盛大に行われました。立派な本殿とその下にあった拝殿は木造だったために倒壊しましたが、祠だけはしっかり残り、この島の守り神のように佇んでいます。

▲ 昔の端島神社
▲ 今の端島神社

端島小中学校

1958 ( 昭和 33 ) 年に建てられた現存の建物は 7 階建てで、1階から4階までが小学校、 5 階以上は中学校となっていました。最盛期は生徒数700名を超えました。窓が非常に大きく造られておりますが、この島は高層アパートが隣接しているため、日当たりが非常に悪く、 4 階以下にはほとんど日が当たりませんでした。そのため、皮膚病にかかる人も多かったのです。せめて子供たちには日当たりのよい環境で授業を受けさせてやりたいという親心から、窓が非常に広く造られていました。

▲ 昔の端島小中学校
▲ 今の端島小中学校

プール

プールは 1952 ( 昭和 27 ) 年に端島小中学校の前に建設されましたが、 1956 ( 昭和 31 ) 年の台風 9 ・ 12 号で大破し、 1958 ( 昭和 33 ) 年に現存する場所に完成しました。このプールは幼児用プールと 25 mプールとが併設されていました。当初は海水が使用されていましたが、閉山の 1 〜 2 年くらい前から水道水になりました。

▲ 昔のプール

元島民が語る軍艦島

語り継いでいきたい想い。軍艦島のこれまでとこれから。
長崎港から南西の海上約 17・5 キロメートルに位置する無人島、端島。通称 「 軍艦島 」 。今年 5 月にユネスコの諮問機関のイコモスが軍艦島を含む 「 明治日本の産業革命遺産 」 の全 23 施設を、世界文化遺産に登録するよう勧告したことはまだ記憶に新しい。今から 12 年前に発足した 「 軍艦島を世界迫産にする会 」 の理事長である坂本道徳氏は、喜びの気持ちと共に様々な想いを胸に、この報せを聞いたという。それは坂本氏がこの会とそして軍艦島と歩んできた道を振り返った時に多くの苦労や喜びなどの経験をしてきたからに他ならない。
また、単に軍艦島を世界遺産にすることだけがこの会の目的ではないことも関係している。

NPO法人軍艦島を世界遺産にする会
理事長 坂本道徳

坂本氏は小学校 6 年生の時に端島へ移住してきた。引っ越してきた当初は、高層アパートが林立する島の風景に驚いたという。それもそのはず、 1916 年に日本で最初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートが建築されたこの島は当時日本の最先端を行く、まさに未来を先取りした場所であった。
島内の一体感は強く、島民同士はまるで家族のように堅い絆で結ぼれていたそうだ。坂本氏の著書「 軍艦島離島 40年 」 の中でも、この当時の島での生活の様子がありありと綴られている。

その後、島を出て会社員をしていた坂本氏に転機が訪れるのは 45 歳の時。端島が閉山してから実に 25 年後のことである。端島中学校の同窓会を長崎で聞いた際、希望者のみ端島へ渡航することになった。しかし希望者はわずかであった。 「 ボロボロになった島を見るのがつらい。思い出が消えそうになる 」 というのがその主な理由であった。その時の同級生の言葉は今でも忘れられないと坂本氏は語る。 渡航して目にした故郷は長年の風化により住んでいた頃とまるで違う姿であった。 そのギャップに涙を流す人もいたそう。 当時未来を先取りしていた島がまるで日本の未来の姿を示し、 警鐘を鳴らしているかのようであった。

同窓会での端島渡航をきっかけに 「 どうしても故郷を保存し、守りたい 」 という気持ちが強くなった坂本氏は仕事を辞め 2003 年に 「 軍艦島を世界遺産にする会 」 を設立した。当時は誰も相手にしてくれず本気にする人もいなかった。そこからは軍艦島講座、執筆活動、各地での講演活動や外部団体との連携、写真展開催など多くの人に島の歴史を発信し、少しずつ理解者を増やしていった。軍艦島ツアーではガイドも務め、元島民として当時の生の声を伝えている。

「 外観が軍艦に似ていることから軍艦島とよばれるようになったが、島で暮らす島民にとってみればそこは端島。いかに外観をもって有名になったとしても島の暮らしや、なぜ無人島になったかなどの本質を後世に伝えられなければ会の真の目的は成就しない 」 と語る坂本氏。
「 世界遺産になり、島に人々が暮らしていた跡をただ保存しただけでは意味がない。カタチだけを残すのではなく島民達の暮らしを含めた記憶も残していかねばならない。実際の島民だけが語り継いでいくのではなく、私たちから話を聞いた人たちがさらに多くの方々に語り伝えてくれると嬉しい 」 。かつて暮らした端島の絆は閉山後 40 年を経た今もなお脈々と受け継がれ、坂本氏とこの島をそして人々を強く結びつけている。

本ページの内容は、エース出版長崎社から発行された長崎観光の情報誌
 「 アナイ長崎vol. 35 ( 2015 年夏発行  )」 に掲載された記事です。
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